華導家に至るまで と 目指す華導家


ずっとずっと、華道家になりたかった。

卒業アルバムには、「国際華道家」って書いていた気がする。

でも、それって一体なんなのか。

 

斬新な作品を創る人?

びっくりするくらいの感動を生み出す人?

英語を駆使して外国人を相手に説明をする人?

 

お教室を持って、お弟子さんに稽古をつける。

自分が受けてきたような、テキストに沿って型を教えて、お免状取得まで指導する。

たまに展示会への出展や、たまに店頭のディスプレイに協力させていただいたり。

 

でも、なんだかどこかで違和感がある。

自分が、いけばなを通してやりたいことって何なのだろう。

 

ずっと、そんなぼんやりとしたイメージを抱えながら、華道家として自立するために、留学をしたり、ビジネスを学んだり、進路に悩んだり、

フラワーアレンジメントや色彩の勉強をしたり、日本の伝統文化や歴史、風俗について研究したり、のろのろうろうろと、

見えているようで良く見えない、華道家という目標に向かってだいぶ遠回りをしながら進んできました。

 

その間には、東北大震災があったり、転職があったり、病気をしたり、失恋があったり、否応なく目の前に降ってきた転機と共に、

自分自身の興味関心、優先順位も入れ替わり、たくさんの刺激とひらめきをいただいてきました。

 

目の前にあるものが空虚に感じて、納得して確信の持てるルーツを探しに、関係者や現場を五感で確認するために繰り出した農場や地方都市。

手にするものが自分のもとに届くまでの背景や過程を掘り下げるため、原料から生産現場に繰り出した製造の世界。

自分が安らぎを覚え、エネルギーを蓄えられる温もりを感じられる自然の中。

 

いけばなとは関係ないような分野であっても、そんな軌跡の中で形成してきた価値観があって、今の自分となっている。

 

そんな自分が改めて、私だからこそ、私でなければできない、心から届けたいいけばなについて、ぼんやりと、方向性が見えてきたりしたのです。

 


いつ頃からだろう・・・

毎回毎回の稽古で、はなと向き合う度に緊張と不安でいっぱいでした。

どう使おう、どれを切ろう、どれを曲げよう、どれを残そう・・・

考えて考えて考えて・・・

選択と判断の連続で、切ったら戻らないいきもののはなを前に、何度となく涙を流してきました。

 

だから、そんな迷いの中出来上がった作品を人に見られることは、すごく恥ずかしくて、すごく怖かった。

 

そのとき、何を考えて、何を意識して、何に対してそんなにも緊張と不安を覚えていたのだろう。

今思うとそれは、先生からの評価だったり、いけばなを始めてから経た年月に比例する技術力だったり、

それを期待するであろう回りからの勝手なプレッシャーだったり、、、

「こんなものか」「下手だな」そんな風に思われることが怖くて、人をあっと驚かすような、

感動を与えられるような作品を作らなければ、という、至極勝手に感じていたプレッシャーだったように思います。

 

軸がぼやけた作品

全体のバランスが取れていない不安定な作品

無駄な枝や葉っぱがたくさん残った作品

ぎゅっと固まって窮屈な作品

スカスカで倒れそうな弱々しい作品

 

毎回真剣だし、毎回一生懸命だし、毎回すごくすごくがんばっている。

それでも、なかなか納得できる作品はできないのでした。

 

どこか余分でどこか足りなくてどこか傾いてる・・・

やってもやっても、そんな未熟で完璧に至らない自分の作品が悔しくて恥ずかしくて・・・

涙を流す稽古を続けてきたのです。

 

それは、少し時間が経って振り返る今、はなに限らず、どこか自分の生き方そのものだったような気がします。

親や、先生や、友人の目を窺って、どのような結果が評価されるのかを想定し、それを追求してはなと向き合う。

もしかしたらそれは、湧き上がるような感情や、こうしたい欲求を封じ込めていたのかもしれない。

自分の中から発する感覚って、実は一番本当の自分かもしれないのに。

 

それでも、はなはそんな自分以上に素直だったのです。

どんなに準備をして、どんなに仮説を立て、どんなに戦略を巡らしても、そこで隠している不安でいっぱいの「本当の自分」が露になってしまうのでした。

思い通りにいかないその「欠けた部分」が気に入らなくて、納得できなくて、恥ずかしくて、流していた涙は、まさにそんな自分に対するものだったのです。

 


なぜ私がかれこれ20年もいけばなを続けてきたのか。

あんなに苦しい思いをたくさんしたのに、何に惹かれて今まで続けてきたのか。

 

それは、毎回、自分では目を瞑っている弱い自分と向き合う機会を与えてくれることでした。

活けたはなは正直で、あるがままの自分を隠さずに表出させる。

はなとの日々の対話の中で、自分の弱さを知り、自分の儚さを知り、自分の未熟さを知ることで、そんな自分と向き合う強さと諦めを磨いてきたことでした。

 

ダメな自分も自分だし、足りない自分も自分だし、間違う自分だって自分だし、迷う自分も悩む自分も全部、今、そのときの自分であることを、

はなを通して体感してきたのです。

そんな、苦くて辛くてしょっぱい表情を見せるいけばなは、私にそのときそのときの自分に気づかせ、留まらせ、背中を押してくれる存在でした。

 

はなは切ったら戻らない。

そのとき、そのはなの持つ一番の魅力を惹きだし、更に魅力的になるよう活け手が決断し、全体を構成する。

 

私たちの生きる道も、まさに同じなのではないでしょうか。


現代を生きる中で、なんとなく漠然と感じる息苦しさがあります。

幸せのレールの上に乗って、間違いなくその段階を経て、まさに今理想とした状態にいる。

それなのに・・・なんだか思っていたのと違う。

 

情報化社会で、いつでもどこでも、調べればどんな情報だって簡単に手に入ります。

お金を出せば、どんなものでも手に入るようになりました。

いつでも世界中の人とコミュニケーションがとれる。

便利だし、楽だし、現代ってすごい。

それなのに、どこか空虚で、どこか孤独で、どこか無意味さを感じる。

 

社会という大きな流れの中で、その流れに沿って生きてきた結果、ふと立ち止まって自分自身とそれを取り囲む環境に目を向けた人が、

その大きな流れのほころびに目を留めているような気がしています。

学校や親から教えられ、止め処なく入ってくる情報に巻き込まれ、そんな中で見失ってしまった「自分」という存在がいるのではないか。

 

自分らしさとは何なのか

幸せとは何なのか

 

同じ商品がいつでも出回り、どこの駅を降りても景色が似通い、友人が語る夢すら同じようになってきた印象があります。

その人らしい生き方とか、その人らしい幸せの姿、その人らしい個性が置き去りになってしまってきたのではないかと、ふと、思うことがあるのです。


戦後日本は、目指せ欧米思考のもと、グローバルスタンダードを目指して経済を発展させてきました。

その拡大成長を求める中で、日本の歴史の中で培われてきた伝統文化がおざなりになっていたのではないかと感じます。

世界を目指す中で、日本にとって一番固有の「日本らしさ」についての教育の機会が持たれてこなかった現実があるように感じています。

 

伝統文化について紹介できますか?

 

伝統芸能は、主に貴族、武士、商人を中心とした高尚文化として発展してきた背景があり、現代でも、お金と時間に余裕のある、

一定の限定されたイメージがあるかと思っています。

かつて、茶道も華道も、武士や商人の男性を中心としており、政治や戦との繋がりを持って、歴史と共に醸成された文化でした。

 

現代の資本主義の中では、経済的価値に繋がりにくい文化と、仕事を中心とした日々の暮らしとの間に、

距離があるのではないかという印象を持ちます。

 

現代の労働を支える多くは、毎日忙しなく働くサラリーマンとOLであり、これからの未来を担うそんな彼らこそが、

歴史が培った伝統文化を暮らしの中で感じることにより、より豊かに活躍できるのではないかと考えています。

 

また、今後さらにグローバル化と自由競争が進む中では、より多様な価値観を受け入れ、自分らしい個性を生かした生き方が求められてくると感じています。

今まで当たり前だった生き方や働き方、幸せや成功、常識が当たり前でなくなり、横並びで同質的な生き方では守られないし、

戦えない時代になってくるのではないかと感じています。

その社会では、自分の考えや判断、選択理由、意見をよりたくさんの人に伝わるようなコミュニケーショが求めれるようになると思います。

個人としての特徴を生かした、よりその人らしい生き方に注目が集まるようになるのではないでしょうか。


では、自分とは何者なのか?

自己分析の方法はたくさん出回り、様々な場で、過去の経験を棚卸し、経験からの学びを振り返ることで長所や短所、

特性や傾向を分析する機会があったかと思います。

 

わかるようで、わかったような気がするようなしないような自分。

否定したいような弱さや勘違いとぶつかる自分。

 

同じ組織にいても同じ課題に対しても同じ素材を扱っていても、結果として出てくることはふたつとして同じものはなく、考え方も選択基準もそれぞれで、

どれもこれもその人ならではの唯一無二の貴重な「個性」。

 

そんな自分ならではの、その人だけが持ちうる独自性、ご自身がどのような状態にいて、どのような価値観を持ち、どのような気持ちなのかを知ること。

もしかしたら、普段意識的に考えないような、見て見ぬふりをしている部分かもしれません。

 

同時に、自分ではない他人という存在。

その考えや感覚の、ご自身との違うところに目を向けてみる。

すると、それは、自分には全くない、異例の発想だったりするかもしれません。

そんな「違い」を認識することによって、もしかしたらよりご自身について考える機会となるかもしれません。

 

活けたそのときのご自身を、素直に表出するいけばな。

 

できあがった作品を、改めてその場でよく観察し、活ける過程でどのような迷いや葛藤、選択があったのか、どういう気持ちを感じたのかなどを

集まった参加者みなさんで共有していただくことで、自己と他者への理解を深めるかたちでいけばなを提案したいと考えております。

 

それは、時に意外な感想や、厳しい感想と感じることもあるかもしれません。

ご自身を媒体を通して客観的に見つめる機会や、他人からそれを通してご自身の印象などを聞く機会はあまりないかと思います。

はなというあるがままの自然素材を仲介することでこそ、理解し合えることがあるだろうと思っています。

 

センスがないと感じるかもしれない

すぐに萎れて枯れてしまうかもしれない

どこも切れないかもしれない

 

その全部の感覚が、そのときのあなたなのです。

 


「こうしなければならない」「こうするべき」

常識、規則、暗黙の了解・・・私たちは日々、そういった決まりごとである「型」に捉われて生きています。

「型」がないと、無秩序で、混沌とした状態になると同時に、「型」により自由を制限されている部分があるかもしれません。

 

いけばなにも、基本となる「型」があります。

美しく、効率的に構成するための土台である「型」。その「型」に習い、「型」に収まらない自分を見つける。

 

いけばなから見えるご自身への理解を深め、多様で彩り豊かな他者への理解を深めることで、

より自分らしく、ワクワクした日々を送れるような社会に繋がると信じています。

 

自分に自信を持ち、日本という固有の独自性に誇りを持って世界で活躍していく人が増えると信じ、いけばなを伝えていきたいと思っております。

 

 

いけばなをきっかけに自分と向き合う強さを身につけ、穏やかでワクワクする明日を導く。

 

そんな華導家を目指していきたいと思います。

 

2016年1月1日  

華彩 hana-dori     井口 双恵